故 小林正明先輩 追悼文
小林正明(昭39C(応用化学科)卒)黎門会前理事が2024年3月21日にお亡くなりになりました.ここに哀悼の意を示すと共に,堀越政彦名誉会長の追悼文を掲載させて頂きます.
小林正明君への手紙
小林君、久し振りだね。どうしているかといつも思っていた。
いつかまた会いたいねとズーと前から思っていた。
小林君と最後に会ったのは、5年前だったね。上野公園内で昼食を一緒に取ろうとの約束だった。公園内をぶらぶら歩きながら、たぶんこの辺においしいうな丼屋があるはずだと言って、そうだ家内に確かめようと携帯で奥さんに電話して確かめてくれた。ここだねと言ってのれんをくぐった。久しぶりだったので話は尽きなかった。
小林君と初めて会ったのは、群馬大学に入学して、オリエンテーションを見て運動神経の鈍い私でもできそうだと思って、クラブ活動の弓道部に応募した。新入部員は集められ先輩から弓道部室まで案内された。部室は校舎の中3階で、階段を上った突き当りにあった。小さな部屋で真ん中にテーブルがあり10人くらいしか座れないところだった。中に数人の先輩方がいたが、とても入りきれないので、屋上に行こうと言って我々新入部員を屋上に案内した。先輩たちも集まって屋上に出てきた。それぞれが自己紹介をした後、新入部員が自己紹介をした。新入部員は11名だった。出身校は、桐高3名、高高2名、前高1名、渋高1名、中之条高1名、高女3名。大学1年間は、校舎の裏の細長い場所があり、ここで2人立の小さな弓道場で弓道を教えてもらった。
2年生になって桐生の工学部へ移った。私は大学校舎と道路一つ離れた大学寮に入った。
小林君の自宅は工学部近くの商店であった。彼の下に弟や妹たちがいたので、道路を一つ離れた下宿屋の1室を借りた。ここは私の大学寮から近いので、夕食をすませて足しげく遊びに行った。弓道部員の中では1番気があったこともあり度々下宿屋へ出かけて行き、夜12時近くまで話し込んだ。
工学部の弓道場は、大学敷地内にあった。講義のないときにはほとんど弓道場へ行っていた。小林君は練習熱心で先輩の教えをよく守り、したがって上達も早かった。小林君と2人でどうすればよく当たるかを研究しあった。2年生の中では小林君が、一番的中率がよかった。私もそこそこの的中率であった。
毎年夏休み中に、関東甲信越国立大学体育大会が開催せれ、弓道大会もその一環として開催された。年度ごとに担当大学が持ち回りでの開催であった。群馬大学の弓道部員は、学芸学部、工学部、医学部等、1年生から4年生までおよそ40名くらいであった。
夏休み中の弓道大会は、選手10名で競う大会であった。小林君と私は運がよく、2年、3年、4年と毎年10名中の選手に選ばれ、埼玉大学、宇都宮大学、茨城大学の大会に出場できた。しかしながら成績は必ずしも良いとは言えなかった。
競技も大事であったが、競技前日の夜に、前夜祭が開かれた。初めて会う人たちであったが、このミーティングがよくて大変盛り上がった。相手方選手にたくさん酒を飲ませて明日の試合に影響させようなどと言いあいながら、楽しい時間を過ごした。翌日の競技は知り合った仲間同士なので、的中すると大拍手が起こった。競技も楽しいうちに終了した。
1年生の時から仲間意識があり、2年生になっても3年生になっても同級生同志で山に出かけた。浅間山へ行ったときなど砂地で急斜面のところでは、1歩進み1歩滑りして頂上に着くまでたいへん苦労した。尾瀬ヶ原での水芭蕉、日光キスゲ。数え上げたらキリがないほど様々なところへ一緒に行った。
そんな風に思い出してみると、何処へ行っても小林君がそばにいた。私の一番の親友だった。そんな小林君が遠くへ行くなんて考えられない。天国へ行くつもりなのだろうか。
まだ行かなくてもいいよ。そんなに急がなくてもいいよ。もう少し一緒にいたいよ。
まだまだ話したいことがたくさんあるのだから。
川柳にこんなのもあるよ、『天国へ行ったみたいな日帰りで』 そうしてみないかい。それから私に天国とはこういうところだよと話してほしいね。
Auf Wiedersehen
2024年4月11日 堀越 政彦