弓道部への入部を迷っている新入生の皆さんへ
入学おめでとうございます.もう三十年以上前になりますが,受験に苦労して入学した時のことを思い出します.
この文章を読んでいるということは,弓道部に入ろうかどうしようか悩んでいる新入生の方が,読者の中に相当数いると推察します.弓道部の先輩として,また現職の大学教員として,この小文が皆さんの背を押す一助になればと思います.
今風に結論から言えば,この文章を読んでいる時点で入部を決断すべきです.多くの社会学的研究(Gilovich & Medvec, 1994; Davidai & Gilovich, 2018)がなされていますし,体感的にも納得できることですが,「やらないで後悔するより,やって後悔した方がよい」は,おそらく真実です(Yeung & Feldman 2022).もっと言えば,やって後悔したことはすぐに忘れますが,やらないで後悔したことはいつまでも残ります.
なぜ入部を勧めるのか.弓道部のように長い歴史があり,しっかりとした現役部員と数多くの卒業生に支えられた組織で,なんの見返りも期待せず,ただ純粋に弓道に興味を持ち極めてみたいという好奇心を原動力にして過ごす時間と,そこで得られる体験は,これからの君達の人生において大きな糧になるからです.これは保証できます.大切なことなので2度言います.保証します.
なぜそれほど断言できるのか.一応,工学系の研究者・教員としてすでに20年以上,多くの学生と関わり,弓道部をはじめとして多くの社会人を,職業柄,観察し,仮説を立てて検証してきた結論だからです.
4年生以降の研究室生活や,社会人になって活躍している人に,かなり高い確率で共通することがあります.大学時代に何かに熱中し,打ち込んだ経験があるということです.研究室に配属されてきた学生で,部活動でもサークルでも趣味でも何でもいいのですが,やらねばならない勉学以外つまり課外活動に,自分で選んだことに本気で取り組んだ経験のある学生は,卒論・修論,博士論文さらにはその先でも目覚ましい成長を見せ,社会に出てからも生き生きと活躍している割合が目立って高い.
なぜそのようなことが言えるか? それは2,3年に一度,私は自分の研究室の同窓会を開いて,卒業生たちのその後を観察しているからです.さらに言えば,私は群馬大学,東京工業大学(現東京科学大学),名古屋大学そして弓道部と,他人より多くの組織の同窓会組織に所属し,それらの行事に積極的に関わり,多くの卒業生と出会っているからです.
大人になれば―いや大学2,3年にもなればわかると思いますが―自分らしく生き生きと生きている人間しか,同窓会の類には出てきません.ですから,毎年または数年に一度顔を出してくる卒業生というのは,いわば「うまくいっている人」に偏ったサンプルではあります.そのバイアスは十分に自覚しています.しかし,それを割り引いてもなお,その中で交わされる会話や醸し出される空気感から浮かび上がるパターンは,研究者として見過ごせないほど明瞭です.
彼ら彼女らに共通しているのは,弓道部の卒業生で言えば,「あの時,弓道部で過ごした時間があったから今がある」という類の発言を,酒の席とはいえ,照れもなくさらっと口にすることです.しかもそれは弓の技術がどうこうという話ではない.出てくるのは,真夏の道場で汗だくになりながら巻藁(まきわら:的の代わりに至近距離の藁束を射つ基礎練習)に向かった日々とか,射形(しゃけい:弓を引く一連のフォーム)が崩れて何ヶ月もスランプに陥った時に先輩や同期にかけてもらった一言とか,試合で失敗して泣きながら師範に電話で詫びたとか,そういう一見すると地味な記憶です.
つまり何が言いたいかというと,弓道部で得られるものの本質は,弓道の技術そのものではなく―もちろん技術も身につきますが―「自分で決めたことに対して,自分の意志で継続し,仲間と共に試行錯誤する」という体験そのものだということです.これは研究や実社会の仕事,大きく言えば人生と驚くほど構造が似ています.仮説を立て,練習(実験,実践)し,失敗し,原因を考え,修正し,また試す.弓道における一射ごとの反省と修正のサイクルは,社会人が「PDCAを回せ」「OODAループだ」などと横文字で偉そうに語ること,要するに「計画→実行→振り返り→改善」を繰り返せという,ただそれだけのことの原型を,身体ごと叩き込んでくれます.しかも,誰に命令されるでもなく,自分の意志でそれをやる.これが大きい.
さて,ここまで読んでまだ迷っている人がいるかもしれません.「運動経験がない」「体力に自信がない」「人間関係が不安」「学業と両立できるのか」そういう心配をしているのだとすれば,それこそが入部すべき理由です.実はその不安は,就職し社会に出る時もほぼ同じです.弓道は,他の武道やスポーツと比べて,体格や運動神経による差が極めて小さい競技です.大学から始めて全国大会に出る人も珍しくありません.私自身も大学から弓を始めた口です.むしろ,何もないところから始めるからこそ成長の手応えが鮮烈で,それが自信になりました.入社試験の面接で「君は姿勢が凄く良いね.何か武道をやっていたの?」と聞かれて驚いた記憶があります.真剣に取り組んだ所作というものは,自然と滲み出るものなのです.
もう一つだけ付け加えます.人生において,リスクの小さい挑戦の機会は,年齢を重ねるごとに減っていきます.大学1年生の今,部活動に入るリスクは限りなくゼロに近い.合わなければ辞めればいいだけです.しかし,この時期に「やらない」を選んだことのコストは,今は見えなくても,10年後,20年後,30年後にじわじわと効いてきます.これは30年後の地点から振り返っている人間の,ただの観測事実です.
迷っているなら,まず道場に来てください.先輩の射を見てください.弓に触れてみてください.それだけでいいです.その上で入部を決めたら,初心者の方はおよそ3ヶ月の基礎訓練を経て,いよいよ的前(まとまえ)に立ちます.初めて矢が的に中った時の,あの乾いた音と身体に残る感覚は,言葉では伝えきれません.あとは君達自身の好奇心が,答えを出してくれます.
道場で会えることを楽しみにしています.
2026年4月2日 秦 誠一(H4機械卒,黎門会副会長,名古屋大学大学院工学研究科 教授)
